陶芸家古橋尚先生が皆さまにお届けする器と食にまつわる『味なお話』の数々。
朝日新聞紙上で先生が連載されたコラムを、蓬【HOKO】壺を御覧のお客さまにも是非、
との先生の御好意によりお届けしています。さて、今回のお話は?

第34話 西太后様、お茶をご一緒に

 佐藤真奈美さんは、テーブルコーディネーターである。フランスで本格的な勉強をし、現在では食文化に関する多くの分野にも見識が広い。
 また、テーブルコーディネートを学びたい人や、コーディネーターをめざしている人に、朝日カルチャーセンターをはじめ各所で講座を開き、八面六臂の活躍である。
 先日、その研鑽の成果を見せていただく機会に恵まれた。
 会場は佐藤さんのオフィスがあるアトリエアンビアンス。この建物は大正時代の木造住宅で、

第33話 瀬戸のろくろ職人

 陶芸教室の多くの生徒さんは、「職人のように同じものを作りたい」と思っているようである。だが、それは無理というもので、なまじのことで本当の職人になれるものではない。
 例えば瀬戸物問屋から料理屋用の一合徳利の注文が200本あったとする。それには、まず家庭用と営業用の徳利の違いを知っていなくてはならない。
 営業用の徳利は少し小さいのである。そして、焼き上がりの寸法の正確さを期すために、ろくろ成型時の土取りを毎回同じにし、その土の量も焼き上がりが縮小することを計算に入れなければならない。しかも、一定のリズムでひかないと違う調子のものができてしまう。うまいろくろびきは傍らで見ていてもそのリズム感のある動作に引き込まれてしまい、いつまでも見飽きないものである。
 現在の瀬戸では、数物の生産は型や機械ろくろが主流となり、もう昔のような職人の技を見ることも少なくなってしまった。

第32話 小さな昭和史 子ども茶碗

 子どものご飯茶碗は、絵柄のある小振りな磁器製のものが多い。その絵柄も、ゴム印などの容易な絵付けで値段も安い。しかし、日常的すぎて忘れ去られていくこの器に着目することは、じつは非凡なことである。
 陶芸家の小林一彦氏の熱意によって集められた子ども茶碗は、大正から昭和の世相を思いがけず反映したものであった。
 大正期のころの絵柄は、桃太郎やウサギとカメなどのおとぎ話を題材にしたものが多い。昭和に入ると、その時々の世相流行がよく映し出されていて興味深い。
 大戦の時代には兵隊や戦闘機など、やがて敗戦とともに、ウサギの絵に英語でrabbitとあるものなどがでてくる。そして、その後はたくさんの漫画の主人公たち。赤銅鈴之助、サザエさん、ポパイにアトム、そしてヒーロー、大鵬、長嶋選手。懐かしくも心躍るコレクションである。

第31話 続竹の楽しみ―茶杓

 竹と茶道は結びつきが深い。例えば、炭を入れておく炭籠、茶せん、釜の蓋を乗せる蓋置きなど、竹なしでは茶道は成立しないといってよい。
 そして、竹を使った茶道具として忘れてならないものに茶杓がある。適寸の竹を切り出して先を曲げ、削って形を整えて作る単純な形である。抹茶をすくうのに使われる。
 茶杓は何げなく見ていると、地味でつまらない道具に思われるかもしれない。しかし、いろいろな茶杓を見ていると、それぞれに個性があり、変化も多くて表情に富んでいることがわかる。茶人たちは自らそれを作り、その竹の色合いや形全体の雰囲気などから風雅な銘をつけて楽しんだ。また、竹で筒を作り、それに由来や銘などを墨書きして収納したものもある。
 金などの価値ある素材ではなく、どこにでもある竹を使って新しい価値を見いだすという日本文化の象徴のような存在、それが茶杓である。

第30話 続竹の楽しみ―筍の皮

 子どものころ、筍の皮に梅干しを入れ、三角形にたたんでその角に口をつけてチュウチュウと吸ったものである。今思い出してもつばがわいてくるなつかしい記憶だ。 竹の香りもほんのりとして、何かひかれるものがあり、筍の調理に気付くと、母にせがんで作ってもらったものである。
 この梅干の筍の皮包みのミソは、いつまで吸っていても梅干が無くならないことであろう。 結局、最後には飽きてしまい、捨ててしまうことになるのだが、そのころになると、筍の皮の表面に紫蘇の赤色が現れて美しかった。
 その赤色は、皮の元の方から染まっており、皮がまだ生きていることを示していた。 また、子どもたちはその染まり具合を競ったりもした。
 私(昭和28年生)たちの世代は、貧しかった時代の子どもの文化を引き継ぎはしたが、経済の成長とともに次世代へは引き渡せなかった。 この梅干しの皮包みも、それらの中のひとつではないかと思う。

第29話 竹の楽しみ

 竹取物語といえばかぐや姫である。かぐや姫は竹の節と節との間の空洞に座っていた。そこは、いわば自然のカプセルで、かぐや姫にふさわしい清浄な場所といえよう。
 竹は、この節があるために強度も増し、適当なところで切断すると杯や花器などの器にもなる。 それだけではない。楽器や建築、作庭などあらゆる所で使われてきた。 また、そのものでなくても竹をモチーフにしたデザインは、多くの絵画や衣装、工芸品に使われている。
 このように竹の持つ東洋的な風情や清浄な雰囲気が愛されて、日本美術と竹は切っても切り離せないものとなった。 実際、美しい竹は見ているだけで爽快感を覚え見飽きることがない。
 竹の良い所は、他にもある。それは食用になるということ。 もちろん筍のことである。筍が嫌いという人はあまりいないと思うが、私は筍が大好きで、取れたてを煮つけて、サクッという歯ごたえを味わうたびに至福の時を感じている。

第28話 廻る廻るよ 回転寿司の皿

 器といえば陶磁器、漆器が思い浮かぶが、つい無視してしまいがちなものにプラスチックの器がある。
 安価で同じものがたくさんでき、割れにくい半面、安っぽい、使用による衛生面の不安、処分後の公害問題などマイナスイメージもつきまとう。
 もちろんいまでは、衛生面のチェックもきちんとされているため、不安に感じる人は少なくなった。 しかし、陶磁器のイミテーションの印象があり、普通の飲食店でプラスチックの食器が使われることはごくまれになった。
 ところが、これでなければという業種がある。それは回転寿司だ。同じ形のものが多数必要で、高く積み上げても不用意に扱っても大丈夫という条件を満たすもの、それはプラスチックの皿である。
 回転寿司は日本の優れた機械技術と伝統食文化の合体といわれるが、実はもう1つ、このプラスチックの食器があってこそ誕生したシステムだと思う。 回転寿司の発案者の方、実際はどうだったのでしょうか。

第27話 修繕の美学―金繕い

 縁を欠かしたり、割ってしまった陶磁器でも、うまく修理すればまた使うことができる。 このごろは少しでも調子の悪くなったものはすぐに捨ててしまう傾向にあるが、器がいまよりももっと貴重であった時代には割れた個所をくさびで継ぐなどして、器の命を永らえてきた。 その工夫のひとつに金繕い(金継ぎ)がある。
 これは器の欠けた個所や割れた所を漆などで埋め、金粉銀粉などでコーティングして美的な効果も持たせたものである。 中には面積の大きな欠損部分に蒔絵を施した金繕いもあり、割れる前よりも器の価値を高めているのではないかと思われるものまである。
 西洋や中国など完ぺきを最高とする考え方が中心のところでは、この金繕いは欠陥の個所を強調しているということで異常に見えるかもしれない。 しかし、不完全な中にも遊び心や美的センスを感じることのできる私たち日本人には、金繕いをされた器にかえって親しみを覚えるのである。

第26話 香合の楽しみ

 もともと香合は、茶道の道具のひとつで、薫物(お香)を入れるふたつきの器である。 様々なデザインがあり、小さくてかわいいので、コレクションをしている人もある。
 素材も陶磁器をはじめ、木製、漆器などがあり、題材も亀、牛、龍、鳥、犬といった動物、ザクロ、ビワ、松かさなどの木の実、キキョウや菊などの花というように自然を表すものが多い。 また、面箱、扇、辻堂などのように人為のものまでと千差万別である。
 このように羅列してみると時代は下るが、根付けの多様性を連想させるものがある。 両方とも日本人のミニチュアサイズの中に凝縮された美や趣を愛する性格が表れたものといえよう。
 ある冬、お料理の中に志野のかわいらしい香合がササの葉の上に載せられて出てきたことがある。  ちょっとした期待感を持ってふたを取ると、イクラのおろしあえである。 最近、香合に珍味を入れたりすることは見聞きしていたが、この演出にはうれしくなってしまった。

第25話 白洲さんからの手紙

 随筆家の白洲正子さんが亡くなった。だれにも死は避けられず、仕方のないことなのだが、とても残念だ。
 私には一度だけ、白洲さんから手紙を頂いたことがある。昭和56年(1981年)の夏、白洲さんの著書「日本の匠」の中にある山梨の水晶の工芸についての感想を送ったところ、返事を頂いたのである。
 縦長の切り紙入りの美しい封筒に、赤い罫線の薄い和紙が5枚、そこに墨の色も鮮やかに、流れるようなしかし力のある個性的な文字が書かれていた。
 私はこのころ、白洲正子という人がどんな人であるのか知らず、ただ単純に本の内容について、自分の知っていた事柄を書いて送ったのである。
 その後、白洲さんの能や骨董、工芸など、日本文化についての著作を知り、また、美を日常に取り入れた暮らしぶりなど、白洲さんは私のあこがれの人となった。
 その後、ファンレターを何度出しても返事は来ず、ついに手紙は掛け替えのない宝物となってしまった。

第24話 立体ジグソーパズル 呼継ぎ茶碗

 世の中には、「はて、奇怪な」と感嘆の言葉をもらしてしまうような器がある。 それは、呼継ぎ茶碗というものである。
 一見すると、いろいろな紋様を描いた茶碗のようである。 ところがそうではない。 なんと、これはたくさんの陶片を漆でつなぎ合わせて、1つの器としているのだ。 驚くべき技術と根気、そして遊び心ではないか。
 モザイクやタイルのように、平面上に平らなものを組み合わせていくのはやさしい。 ところが、これは立体である。 しかもパーツもあつらえたものではなく、織部や志野など発掘された不定形の陶片だけで作り上げている。
 でき上がったときの全体の形やバランスなど、茶碗を知りつくしている者でなければ、とうていできるものではない。 どれほどの時間と労力を注いだことであろう。 しかし、この茶碗の作者にとってはそんなことは問題ではなく、きっと難解なジグソーパズルを完成させた時と同じ喜びを味わったに違いない。

第23話 金銀日月椀の美

 北大路魯山人は、陶磁器ばかりでなく、漆器の製作も試みた。 といっても、陶芸のように実際に、自らの手で作るのではなく、デザインをして漆職人に作らせたのである。しかし、魯山人の才能はここにも発揮されていて、見るものをうならせる。
 とくに、金銀日月椀と名付けられた吸い物椀は素晴らしい。 その優れたデザインはいまでも使われていて、商品化されているほどだ。 黒地に金と銀の円が交互に配置されているという、単純な柄ながら、その着想の非凡さは天才を感じさせるのに十分である。
 およそ半世紀前に作られたこの漆器を見ても、まったく古さを感じさせない。 まるで最近作られた物のようである。 それは時代を超えたデザインの普遍性による。 そして、何十工程もあるという漆器の製作工程にも手を抜かせず、最高の材質と仕上がりを求めたという魯山人の、器への思いが生きているからではないだろうか。

第22話 アジアのカンナの葉

 私の子どものころ、「兼高かおる世界の旅」というテレビ番組があった。 当時まだ海外旅行は夢の時代で様々な外国の様子をあこがれながら見ていたものである。
 いまのテレビの旅番組のルーツとも言えるこの番組は、兼高さんの女性ながら何にでも挑戦する姿や、名ナレーター芥川隆行氏との掛け合いも面白く、長年続いた人気番組であった。
 当然食に関するシーンもふんだんにあって、フランス料理やエスニック料理など、見たこともない者にとっては、つばをのみ込むことがしばしばだった。
 ある日、いつものようにこの番組を見ていたとき、アジアのどこかのにぎやかな屋台街を紹介していたことがあった。 何かチャーハンのような、おいしそうな炒めものである。 それを幅広の自然の葉にくるんでお客に渡している。 説明ではカンナの葉ということであった。
 それから30年以上たったいまでも、カンナの葉を見るたび思い出すのは、あの屋台と炒めものである。

第21話 古九谷異聞

 以前このコーナーで、古九谷は北陸ではなく、九州有田で焼かれたという学説が主流になりつつあるということを述べた。 私もほとんどその節に賛同の立場であったが、ここへきてその考えが少し揺らいでいる。
 それはある人からの情報による。 その人は先日私の個展にふらりと入ってこられた、NHK金沢テレビの番組製作の仕事をしている方である。 焼き物好きな人で、いろいろな器や窯の話題から、話は古九谷有田焼説に及んだのである。 そのときに、興味深い情報を教えていただいたのだ。
 驚くべきことには北陸地方でも、最近になって上絵付けのある陶片が発掘されていたという情報である。 それが古九谷に合致するものかどうかなど詳しいことはわからないが、本当なら古九谷北陸説の強力な現物証拠となるはずだ。 この人の見解では、古九谷は北陸、九州両方で焼かれた可能性もあるのではないかということであった。 なぞがなぞを呼ぶ古九谷ではある。

第20話 びっくり−陶製ボトル

 エルビス・プレスリー、郵便配達人、乳しぼり、野球、フクロウ、イルカ、サケ、犬、ライオン、協会、ベンツ、スペースシャトル、帆船、芸者ガール、バラの花、何でもありのテーマを具象化して、その中にウイスキーを入れるという発想の奇想天外。これら陶製ウイスキーボトルのコレクションは、まるでオモチャ箱を開けたような、久しぶりにワクワクした展覧会であった。
 これらのボトルは、ほとんどがアメリカからの注文で、1970年代に最も盛んに作られて欧米に輸出されたのだという。 生産は瀬戸を中心として80%以上が愛知県で作られた。
 瀬戸のいわゆるノベルティ(置物、がん具類)の技術を生かした製品であり、どれを見てもこれが日本の焼き物かと疑うぐらいアメリカのにおいがしておもしろい。 しかし、これらの製品もりっぱに日本を代表する焼き物のひとつなのである。

第19話 秀吉の魂−黄金の茶碗

 名古屋城の庭園にある茶室には、太平洋戦争のおりに焼け落ちた金鯱の残がいで作ったという黄金の茶釜がある。 これで沸かした湯でお茶をいただけるとあって、名古屋城を訪れた人々の楽しみのひとつとなっている。
 名古屋人は「金ぴか」が好きだという風評もあるが、もし、金鯱以外のルーツをたどるとしたら、それは豊臣秀吉であろう。 黄金の茶室を作り千利休に茶をたてさせたエピソードをはじめ、秀吉の黄金好きは貧しい階層の出身ということの反動であろうか。 利休の具現した侘びの世界には結局、最後まで理解には及ばず、そのことが利休自害の原因のひとつになったと思われる。
 その秀吉が作らせたといわれる黄金の茶碗が、醍醐寺に伝わっている。 木で天目型に椀を作り、黄金の板を打ち出して上下から合わせ、茶碗の趣をよく表している。 釉薬の垂れ具合まで表現しているのだから恐れ入る。 「自分の茶碗はこれしかない」という秀吉の声が聞こえるようだ。

第18話 御本と御本手

 御本とは見本あるいは手本のことで、桃山時代から江戸時代にかけて、わが国から朝鮮に対して注文して作らせた焼き物のことである。主に茶碗であったが、鉢や皿、香炉なども作らせたという。 つまり、デザインは日本でして、製造は外国製というわけである。これは、現在わが国の多くの海外工場の形態と同じであり、なかなか興味深い。
 さて、このように注文されて出来た焼き物は、御本手(ごほんで)と呼ばれ珍重された。その多くは、白い土で作られ、鉄やゴスなどにより簡略で趣の深い絵付けがなされている。
 この御本手の土は白い土といっても焼成後は黄色、ネズミ色など複雑な色調をおびて、特に赤みがかったぽつぽつが現れることがある。その赤みが、茶の緑色を引き立てるとして 喜ばれ、このぽつぽつ模様のことも御本と読んでいる。
 この模様としての御本は見るものに温かさや安らぎを与え、現在では意図的に再現されることも多い。

第17話 楽焼と楽

 楽焼というと、観光地などで『1時間で湯飲みや皿に絵付けができます』という看板を見ることがある。これは、素焼きの器に絵の具で絵や字を書いてもらい、透明の低温釉をかけて電気窯などで短時間で焼き上げるものである。
 このようなこともあってか、楽焼の楽は、この焼き物が簡便で、苦労せずラクにできるからだと理解されている向きもある。しかし、それは千利休の指導で茶碗を製作した長次郎が、秀吉から楽という金印を賜ったという故事による名称だといわれている。
 この楽の茶碗は、ロクロを使わず手びねりで仕上げて、窯もフイゴを使う特殊なものである。焼成温度も通常の焼き物よりも低いため、手に持って軽く、また感触も見た目も柔らかさがある。ただし、壊れやすいので、慎重に取り扱わなければならない。 そんな弱点でさえ、味わいのひとつとして取り込んでしまう日本人の感覚はすばらしい。

第16話 古九谷は有田焼?(後編)

 古九谷は、日本の焼き物の中でも、志野や織部とともに非常に個性の強い焼き物である。
 大皿に描かれた松や波、花鳥などの力強い描線は、他に類例がない。また、黄、緑、紫などの上絵の具の取り合わせの強烈さ。
 この古九谷が、研究の結果、それまで考えられていた北陸でなく、伊万里焼で有名な九州の有田で焼かれたものであることがわかってきた。
 しかし、研究の結果がそうであったとしても、古九谷が、伊万里や柿右衛門と同じ場所で焼かれたとは、にわかには信じがたい。障壁画の影響を受けているという説もある。
 私には、古九谷は、一人の才能ある人物が関与しているように思われてならない。それほど強い個性を感じるのだ。
 さて、古九谷の大皿に乗せて一番似合う料理は、何と言ってもズワイガニだと思う。結局、古九谷は意識の中では北陸のイメージのままなのである。

第15話 古九谷は有田焼?(前編)

 焼き物の歴史上、それまで常識と思われていたことが、ある時から覆ってしまうことがある。
 有名な話としては、荒川豊蔵氏による美濃での志野の陶片の発見がある。この発見によって、初期の志野は瀬戸で焼かれていたというそれまでの常識がひっくりかえされてしまったのだ。
 これは昭和の初めの頃の出来事であったが、実は平成の時代になっても、同様のことが起こったのである。それは、古九谷にまつわることである。
 九谷焼は、現在でも北陸金沢あたりでは、名産品として疑う人はいない。そのルーツは江戸時代初期にさかのぼる古九谷であるとされていた。ところが、石川県下では、古九谷の窯跡が発見されず、早くからこれを疑う学者はいたのである。
 ようやく最近になり、古九谷は、九州有田で焼かれたものであることが、ほぼ定説となってきた。しかし一般的には、まだこれが常識として浸透していないのが現状である。(つづく)

第14話 山から生まれた山茶碗

 常滑から名古屋の南部、瀬戸や豊田などの山間部を歩いていると、山茶碗の破片を拾うことがある。私も粘土などを探して歩き回っているうちに、いくつかの山茶碗を拾った。ひとつだけ破片が地表に出ている場合もあれば、山茶碗の巣ともいえるほどざくざくと見つかることもある。これは窯跡か物原であろう。
 山茶碗は、無釉で重ねて焼かれることが多く、たぶん雑器として都に供給されたのだろう。その胎土も精製しない砂混じりのもので、ろくろや仕上げもおおらかである。
 山茶碗は、別名藤四郎焼ともいう。これは瀬戸の陶祖である加藤藤四郎が、海岸から試し焼をしながら北上し、ついに瀬戸に辿り着いたという言い伝えに因っている。その捨てられた試し焼が、山茶碗であるというのだ。
 そんな伝説めいた話もおもしろいが、私は山茶碗の素朴な味わいが好きで、少し水を入れて季節の花を一輪浮かべて楽しんでいる。

第13話 皇帝の器−ヒスイの碗

 中国の清の時代に、それまでホータンの玉として知られていた白い玉(ぎょく)に代わって、ビルマ(現ミャンマー)産の緑のヒスイがいろいろな装飾に用いられるようになった。ヒスイといえば、今も昔も高価で貴重な宝石であるが、何とこれで、皇帝は花瓶や香炉、食器などを作らせたのである。
 台北の故宮博物院には、多くのヒスイの製品が蔵されている。かつて、私も見学に訪れたのだが、そのあまりの素晴らしさに時間を忘れて見入ってしまった。
 その中のひとつにヒスイの蓋付の碗があった。高さ10センチほど、緑の色は自然の濃淡が現れて明るく透き通り、まさに至宝と呼ぶにふさわしい逸品である。碗であるために、中身の部分を削り取るという、高価なヒスイを無駄にする工法で、現在では再現することは不可能であろう。
 それにしても、この類稀な貴重な器で、皇帝は何を食されたのか知りたいものである。

第12話 空への想い−青磁の鉢

 中国の南宋の時代に、皇帝のために焼き上げたこの美しい焼き物は、初めは玉の再現として作られたという。玉とは翡翠に似た鉱物で、昆崙山脈の麓より産出し、黄金の値にもまさる宝物として尊ばれていた。そして、その玉器を人工で作り上げようとして、かえって玉にはない新しい美が出現したのである。
 この空や深い水の色合いを持った焼き物を、日本の人々もこの上なく高貴な物として珍重した。足利義政は所有していた青磁の碗にひびが入ったので、当時の中国に送り同じ物がないかと捜させたところ、このような優品はないし、もうできないと言われたという。そして、器のひびはカスガイでとめて返されてきた。青磁はそれほど貴重な存在であった。
 現在では美しい青磁を作る作家も多く、日常に楽しめる焼き物となっている。
 大きな青磁の鉢に、香り高い桃を盛って、当時の中国に思いを馳せるのも一興であろう。

第11話 見果てぬ夢−曜変天目茶碗

 世界に、たった三点しかないという稀有の宝物。青、紫、緑、銀などの色彩が光線によって変幻自在に移ろい、比類のない美しさで見る者を魅了してしまう。それが曜変天目茶碗である。
 中国より鎌倉時代に渡来した、この玉虫色に輝く天目茶碗を見た人々の驚きは想像に難くない。そして天下の大名物となり、現在では三点とも国宝である。
 そのために、この曜変を再現しようとする努力が古来からなされてきた。しかし、その再現は至難の業であった。例えば、瀬戸では曜変天目の研究に手を出すと家をつぶすとまで言われていたのである。
 しかし、それでも陶芸家の曜変に対する情熱は衰えることはなく、現在では目を見張るような成果を上げている作家も現れるようになった。常滑在住の久田重義氏や瀬戸の故長江惣吉氏の曜変天目茶碗は、実に見事な出来栄えである。
 その曜変天目茶碗でお茶を飲んだら百年は長生きしそうな気がするのだが、残念ながら私の望みはまだ叶えられていない。

第10話 織部いろいろ

 織部という言葉には、いろいろな意味がある。まず戦国武将であり利休の弟子でもあった茶人の古田織部という人物の名前。織部という焼き物はこの古田織部の創作であるといわれ、その焼き物の呼び名の由来でもある。
 焼き物の織部自体にも多くの種類がある。青織部、黒織部、織部黒、鳴海織部。そして鉄絵で描かれたさまざまなデザイン、これが何百年も前のものかと思うほど斬新でモダンだ。器の形も、実に自由な発想で魅力がある。これ以降の食器の手本となり、現代に生きているのもうなずける。
 私たち焼き物の作り手が織部と聞いて、思い浮かぶのは織部釉のことである。
 深い緑色をしたこの釉薬は、酸化銅による呈色である。しかし、緑色は食べ物に合わせにくいという人がいる。そんな人には、「総織部の銘々皿に、白い薯蕷饅頭をのせてごらんなさい。これほど上品な取り合わせはないですよ。」と答えることにしている。師匠の受け売りではあるが。

第9話 憎まれっ子魯山人

 黒田領治というすばらしい美文家の陶磁研究家であり、かつ有名な陶器商がいた。かつて彼が編纂した北大路魯山人の作品集の解説を読んでいて、大変驚いたことがある。7年間ほど黒田氏は魯山人と関わったことがあるのだが、その本の中で魯山人のことを、「とんでもない狂暴性、情け容赦しない傲岸さを感じ、悪魔とさえ思った一時期を思い出す云々」という記述に出会ったからだ。
 魯山人の人となりや生涯は何度も本に書かれ、今ではテレビドラマ化されたりして、その激しい生きざまが知られるようになった。親の愛情を受けなかった幼少時代など育った環境に同情の余地もあるが、それにしても大変な傲岸さと排他的な姿勢は自らの孤立を招いたといわれている。
 にもかかわらず、現在、魯山人の評価が高いのは、もともと料理人であった彼の、料理を生かす器の思想や伝統を踏まえた数々の創作、つまりはアートディレクターとしての才能が見直されているからだ。

第8話 縄文の食器

 縄文時代の食事は、どんな様子だったのだろうか。人は山海の幸を土器に入れ、火を使って料理した。そして、手づかみで口に運んだと理解されていることが多い。学校の教科書などにも竪穴式住居の中で、縄文人の家族がそんな様子の食事をしているという図が載っていたりする。
 しかし、近年の遺跡の発掘調査により、今までの通説が覆されることが多くなった。例えば、既に栗など果樹の栽培が始まっていたこと。非常に大きな塔や住居、そして10メートル以上の幅の道を造るなど想像以上の文化水準であったことが分かってきたのだ。こういった状況から、縄文人は猿のように何でも手づかみで食べていたという考えには疑問を持ってしまうのだ。
 当時、すでに食べ物を分けた食器としての土器もあったかもしれないし、木の葉や土器の破片を食器として使っていたという想像も無理はないと私は考える。
 いずれにしても、原始人のような野蛮な食事の図は、縄文人に対して失礼というべきだろう。

第7話 ガラスの器

 玻璃(はり)あるいはギヤマンなど、ガラスの古い呼び名には何かロマンを感じてしまう。それは、ガラスが、大陸から伝わったことに由来しているのかもしれない。
 渡来した美しいガラスの器を見た当時の人々の驚きは、想像に難くない。水晶のように透明で、宝石のように鮮明な赤や青などの色彩。詫び寂びを尊んだ日本人も、ガラスの直接視覚に訴えてくる美しさには、素直に感服したに違いない。
 そして、その輝く美しさを自ら作り上げようとした結果が、薩摩切子であり江戸切子であった。切子とはカットガラスのことである。
 この貴重な器で酒を飲み料理を楽しむことは、江戸時代の人々にとって贅沢の極みであったろう。献上品として使われたこともうなずける。
 現在では、夏の和食にはガラスの器は欠かせないものとなった。かつて、冷やした切子のグラスに、じゅんさいを入れて供されたことがあったが、その爽やかさは格別であった。

第6話 志野

 志野という焼き物は、粘土で作った器に、長石という石を臼でつき細かくしたものを掛けて焼いたものである。これほど純粋に日本的な造形はなく、また「しの」というやさしい響きの名称も魅力的である。そのために、志野ほど人々を魅了し、また多くの陶芸家にチャレンジ精神を与えたものはない。なかでも加藤唐九郎、荒川豊蔵は志野の両雄ともいうべき先達である。そして、現在でも多くの陶芸家が現代の志野を目指して制作を続けている。
 この焼き物のポイントは、火色というほんのりとしたピンクや赤色を、白い長石釉の下からいかにうまく引き出すかということである。この火色は焼き過ぎると消えてしまい、中途半端では生焼けで終わってしまうので他の焼き物に比べて窯焚きが難しい。
 志野といえば茶碗のイメージが強いのであるが、桃山の志野の向付などは実に瀟洒なもので、400年前の人々の洗練された食文化を彷彿とさせる。現在私たちが親しんでる和食の原点が、ここにあるといってもよい。

第5話 備前焼の大皿

 世に「土もの」と呼ばれる釉薬を掛けない焼き物はいくつかあるが、その中でも有名なものは備前焼であろう。一ヶ月あまりも窯の中で炎にもまれた結果、器は人の想像を越えた表情を生む。窯の中で、降りかかった灰が土と一体化して表面が解けてチリメンのようになったり、色彩も赤から黒、緑、あるいは金色と変化は尽きない。
 こういった土ものの器は、料理に使う前に必ず水にくぐらせることである。器は乾いた状態とは違って、しっとりと色もよく落ち着き、料理のうつりもよい。
 備前焼の大皿には、同じ料理でも繊細な盛りつけでなく、器の豪快さを生かした盛りつけがよい。お造りであれば、薄作りの白身魚ではなく、かつおのたたきなど一尾分をたっぷりのツマとともに乗せてみたい。
 また備前焼のような土ものの器には、笹やその他の季節の植物の葉を添えると一段と料理が映える。この理由は、土そのものの表情がある焼き物には、自然の植物が当然似合うということなのである。

第4話 名古屋城と御深井焼

 御深井焼は、器にかかる薄い青緑色の釉薬が美しい焼き物で、名古屋に縁の深い焼き物でもある。
 この御深井という文字を「おふけ」と読める人はまずいない。この名前の由来は名古屋場内にあった御深井丸という屋敷の庭で焼かれたことによる。そして、当時の尾張藩主、徳川義直が呼び寄せた明人陳元贇の指導のもと、瀬戸の陶工たちに焼かせたものである。
 現在、戦災で焼失した名古屋城本丸御殿を再建しようという動きがあるやに聞く。もちろん莫大な費用のかかることなので簡単に実現できるとは思えないが、名古屋市民としては関心の持たれる話題ではある。
 御殿が完成のあかつきには市民に開放して有意義な活用がなされると思うが、私にはひとつの提案がある。それは、御殿の一角に御深井焼の資料コーナーを設けること。そして、他に食事のできる場所を作り、御深井焼の器に当時城主が食べていた料理を再現して供してほしい。御殿の中で殿様料理を味わう。いかがなものだろう。

第3話 黄金と黄瀬戸

 桃山の焼き物のひとつである黄瀬戸は、黄金のコピーだという説がある。それは派手好きな豊臣秀吉の好みを反映している焼き物だというのである。
 利休の侘び茶に反撥して黄金の茶室まで造った秀吉は、陶器も黒い焼き物は貧乏臭いといって嫌った。確かにその時代の黄瀬戸は、美しい黄色が黄金を思わせなくもない。
 しかし、私は、黄瀬戸の器の中にアクセントとして打ってある緑色のタンパン(銅の顔料)に着目したい。枯れ野に芽生えたひとむらの草、黄褐色の中に緑を残す蔦の葉などを彷彿とさせる黄瀬戸の器。黄金というより、そんな自然の色彩を写したものが、黄瀬戸ではないだろうか。
 さて、黄瀬戸の器はオールシーズン対応である。春にはわらびのおひたし、秋には太刀魚のお造りと、いろいろな料理に合わせることができる。そういう点では、黄瀬戸には黄金の器にも優るすばらしさがある。

第2話 引き出し黒茶碗

 私の師匠は、瀬戸・赤津在住の伝統工芸作家、加藤春鼎(二代)先生である。
 先生は、志野、織部、黄瀬戸などこの地方伝統の焼き物を得意とされていたが、特に引き出し黒という技法においては、他の追随を許さなかった。この技法は、抹茶碗などに釉薬をかけた後、1250度で焼成し、その真っ赤に焼けている器を鉄のはさみで掴み出し、水の中に入れて急冷するという豪快な技である。これは、水に入れるタイミングが難しく、失敗も多いのである。
 さて、出来あがった引き出し黒茶碗は、漆黒の釉薬が、滑らかに、あるいは縮れて、他にはない味わいである。春鼎先生はよく「引き出し黒は、毎朝味噌汁を入れて飲むと肌が微妙に変化して、よくなるんじゃ。」と言われた。
 味噌汁といえば、当時、修行中の私たち弟子に、先生の奥様が作って下さった実だくさんの味噌汁の味も、今では忘れられないものとなった。

第1話 金の水 銀の水

 器と食べ物の話を、気ままに書いてほしいと編集部からの依頼である。だからあまり難しい話はやめにして、旨くて、楽しい話を綴ってみたいので、しばらくお付き合いを願いたい。
 私は、陶器を作ることを仕事にしているので、器というと陶磁器、あるいは塗り物を思い浮かべてしまうが、食べ物を盛る器は、そればかりではない。最も原始的な器は人間の手であろう。冷たい清水から、水を飲む時、人は自然に両手で水をすくって口に運ぶ。これほど旨い水の飲み方はない。どんなに高価な器も両手にはかなわない。
 かつて御岳登山を試みた時、登山道の途中に「銀鈴水」と表示してある湧き水を両手で飲んだことがある。ごくごくと、喉を鳴らして飲んだその水の旨かったこと。まさに甘露とはこのことだと心から実感した。あれほど旨い水は、後にも先にも経験がない。
 登山を終えて、今度は「金鈴水」と表示してある湧き水を見つけたのだが、急いでいたので飲まずに通り過ぎてしまった。30年以上も前のことながら、悔いの残る思い出である。

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