古美術の新世界

古美術の新世界-鍋 島-



●古美術関係の雑誌、メディア等で、そのご活躍が大変にご顕著な工藤吉郎先生を当コンテンツにお招きすることができました。
工藤先生は日本体育大学の医学博士をお務めになる傍ら、皆さまも良くご存知のとおり古美術の世界にもよくご精通され、我々も学会や博覧会など、先生の古美術諸説を学ぶ機会も度々ございますが、この度先生のご好意により、当サイトを通じて先生が新たに書下ろされる『古美術の新世界』を連載として、 皆さまと共に楽しませていただく好機に恵まれました。


  • 第1回 鍋島 ー鍋島焼についての序ー




    ●こんにちは、私、古美術が三度の飯と同様に好きな工藤でございます。
     この度、名古屋の蓬壺(古美術と宝石の蓬【HOKO】壺)さんから『何か書け』といわれましたので、時々名古屋に来た時にヒトコトずつ好き勝手なことをごく簡単に書かせていただきます。
    これが、このインターネットを開かれた方に何らかの御役にたてば幸いであります。
     今回は、その第1回でありますので、私が最も興味を持っている鍋島のことについて少々御話致します。
     鍋島とは、我が国唯一の官窯ともいわれる九州は佐賀藩主が焼成した磁器でありまして、全く売買はされなく、すべて製品は藩主の城内における什器と宮中・公家や徳川幕府・諸大名に贈答したものでありますこと衆知の通りであります。
     言い伝えによりますと、その窯は有田町内の岩谷川内(いわやこうち)で産声を上げ、南川原(なんがわら)に移り、更に延宝4年伊万里の大河内山(おおかわちやま)に移り、明治4年の廃藩置県とともに閉窯したことになっています。
     これまでこの言い伝えに基づいて岩谷川内や南川原を調べましたが、鍋島に直接結びつく資料は全く発見されませんでした。
    ところが、伊万里市の大河内の藩窯内での発掘調査によりまして延宝年間以降はもちろんのこと、それ以前の焼成品が発見されました。おまけに、大河内藩窯跡(主に物原(ものはら))から西南に300m程登った日峯社(にっぽうしゃ)のすぐ下側(通称日峯社下窯)から、試掘ではありますが数種類の磁器片が発見されました。
     一昨年、『炎の博覧会』の伊万里会場の鍋島展で、その一部を展示して皆様の御批評をうかがいましたが、昨年11月の一ヶ月間も同会場で御覧いただきました。
     このことは20年程前から、鍋島は大河内で産声を上げ、そしてこの地で閉窯したと考えていた私の考え方を支持するものでありまして、今ではこの考え方が正しいとされるようになりました。
     それでは、岩谷川内や南川原は何かといわれることになります。
     この2ヶ所につきましては、古九谷様式の磁器が作られていた1650年前後に鍋島藩主の什器を焼かせた所だと思えばよいわけで、この2ヶ所は大河内と同様100%その運営にかかわっていなかったのであります。
     つまり岩谷川内や南川原の製品は、鍋島藩主が買い入れたということであります。
     今日はこれくらいにして、次回は日峯社下窯で焼かれた発掘片と、これと同様の伝世品の写真を御示しして少々御話させていただきます。


  • 第2回 Q&Aー皆様からお寄せいただいたご質問をもとにしたQ&Aー




    ●こんにちは。鍋島についての第2回目は鍋島最初期の出土片と伝世品について御話する予定でありましたが、第1回目の御話の後、多くの方々より種々の御質問がございましたので、急遽、2回目のテーマを変更して、御質問のいくつかにお答えすることに致しました。

     問1.鍋島は現存数が少ないと聞いていますが、現在のところ何点ほど確認されているのでしょうか。もしご存知でしたらお教え下さい。また、鍋島の最高作品といわれるものにはどんなものがあるのか教えて下さい。

     答1.・鍋島の現存品について
     おっしゃる通り、普通の伊万里などに比べたら、鍋島の現存品は少ないと思います。
     しかし、焼く時点ごとに同じデザインのものを、例えば7寸皿や5寸皿では10点、20点、30点、いやそれ以上焼いています。
     今から20年程前までは、市場に5点、10点と揃って出てきました。
     しかし現在では、このようにまとまって出て来ることはなく、殆ど1点単位です。
     同じデザインのものが複数点現存している鍋島でありますから、何点ということではなく、何種類といった方が正しいでしょう。
    現存する点数は定かではありませんが、かなりの量であることが想像できます。
     例えば、私はこれまで古鍋島から盛期鍋島の尺鉢を調べてみましたが、異なるデザインごとに100種をこえています。でありますので、7寸、5寸等の皿を考えますと、現在では1000種は下らないのではないかと考えます。
    ・最高作品について
     このことにつきましては個人個人で少しの差はあると思われます。
     しかし、例えば、
     色鍋島松竹梅文瓶子(重要文化財) 
     色鍋島唐花文水注 
     色鍋島蔓文香炉 
     等の他、大鉢、三つ足鉢でありますと、
     色鍋島芙蓉菊文大鉢(重要文化財) 
     色鍋島岩に山吹文大鉢(スイス バウアー・コレクション)
     色鍋島橘文大鉢  (MOA美術館)
     色鍋島宝尽文大鉢 (岡山美術館)
     色鍋島桃文大鉢  (MOA美術館)
     色鍋島岩牡丹植木鉢文大鉢(栗田美術館)
     鍋島染付鷺文三つ足鉢 
     等があげられます。
     7寸、5寸皿でありますと、かなりのものがあげられますが、例えば、
     色鍋島蒲公英(たんぽぽ)文7寸皿 
     色鍋島牡丹青海波文7寸皿
     色鍋島組紐文7寸皿 (岡山美術館)
     青磁染付水車文7寸皿
     色鍋島青海波に鶺鴒文5寸皿    
     色鍋島蟹牡丹文5寸皿
     等があげられると思います。

     問2.鍋島は鍋島藩主の城内における什器と宮中・公家や徳川幕府・諸大名に贈答したもののみとのことですが、あれだけ素晴らしい技術をもった職人を抱えこみながら、それに市場性を持たせなかったその理由と申しますかねらいと申しますか、それをお教え下さい。私でしたら、藩の経済を隆盛させるためにどんどんと販売するのですが。

     答2.鍋島について市場性を持たせなかった理由、これは大変に難しい問題です。
     しかし、各大名ともに幕府や諸大名に贈り物をする風習がありましたので、鍋島本藩としては自藩独自の御庭焼を毎年11月の贈答品としたことが知られています。このことは現在、私どもが年に2度ばかりする御中元や御歳暮のようなものと考えて下さい

    問3.つい最近、近隣の蚤の市で、鍋島と思われる5寸皿(図柄は牡丹)を格安(10万円程度)で購入しました。しかし、どうも安すぎると思えてなりません。もしかすると時代が新しいかもしれません。簡単な見分け方などがございましたら是非御教授下さい。テレビの番組などで中島誠之助先生がよく「鍋島の高台の部分に指をかけて落ちないことが条件です」とおっしゃっています。私のものも落ちませんが、どうも不安です。よろしくお願い申し上げます。

     答3.・鍋島の鑑定法について
     このことにつきましては、ごくわずかなスペースでは説明することは難しいことです。
     でありますが、一般的に初期のものは皿でありますと浅く、盛期になりますと少々深さが増してきます。それが後期になりますと、一層深くなる傾向がございます。
     また、絵付けでも多くの変化が見られます。例えば、高い高台に染付で描かれた櫛目が時代とともに長くなります。
     いずれにせよ、これからの鍋島についての御話で詳しくお伝えしようと思っています。しかし、すべてをインターネットの画面で説明し尽くすのは無理なことであります。実物で直接御話することが最もよいのではないかと考えます。

     問4.私は宮城県に在住しているものです。私も鍋島が好きで『炎の博覧会』が行われていた九州へ是非行きたかったのですが、経済的な事情もあり、とうとう出かけられませんでした。どのような鍋島の磁器片が展示されていたのか想像がつきません。もし、写真などがあればホームページを通じてで結構でございますので、拝見できないかなと、ささやかな希望です。

     答4.一昨年秋の佐賀県下で行われた『炎の博覧会』の時、伊万里市で開かれた『鍋島展』は私がコーディネートしたものでした。
     また、昨年11月にも、伊万里市で私が寄贈した鍋島を中心として展示会が開かれましたが、一昨年、昨年ともに図録が出版されました。
     もし、必要でしたら御申し越し下さればと思います。

     次回は、日峯社下窯跡に関する御話を致します。


  • 第3回 鍋 島 日峰社下窯遺物について その1




    ●私の駄文の2回目は、鍋島焼誕生についての時期、およびどんな鍋島が焼かれたかをお話しする予定で居りました。昨年晩夏のことでありました。それをやむを得ず変更せざるをえなくなりました。それはインターネット御利用の複数の方々から様々な御質問を頂いたからであります。
     この御質問につきましてはインターネットでありますので、直接お答えできるものではありませんから、急拠2回目をそれらの御質問についての御答えと致しました。
     そこで、実質的には今回は3回目でありますが、内容と致しましては2回目に御話する予定の鍋島焼誕生について御話させていただきます。
     鍋島は、これまでの通説とは異なり、1650年代、これまでに言われていた延宝3年(1678年)南川原より大川内山に藩窯が移されたとされるより13〜15年ばかり前に初期鍋島と考えられる焼物が焼かれ始めました。これは即ち、鍋島誕生時の焼成を思わせるものでありまして、場所は藩窯跡よりそれ程遠くない西南200mばかりの日峰社すぐ下の北斜面、杉や檜が植林されている場所であります。
     ここに通称日峰社下窯があったわけでありますが、その発掘調査は現在までのところ只一回だけ、それもこの窯跡の一部、しかもごく上層のみを調査したに過ぎません。平成2年1月のことでありました。
     しかし、この調査で数多くの出土遺物を発見しています。その遺物は少数の陶磁片を除けばすべて磁器片で、種類としては碗、皿、香炉、瓶、壷などであります。遺物は染付と青磁でありますが、うち最も多いのは網目文の碗であります。これは普通に有田地方で多く見られた碗に共通の作品であります。
     ところが、これらに混じって初期鍋島的意匠を持つ染付が発見されました。
     これらは鍋島盛期といわれている定型化・様式化したものではありませんが、高台が高い、その高台に文様を描いてある、皿の裏面には法則性を持つ裏文様がある等の基本的な共通点を持つものでありました。
     この鍋島焼誕生を思わせるいわゆる日峰社下窯で焼かれた製品の中の極めて精緻な一群を見ますと、ここで産声を上げグローアップしたすべてが行われたものではなく(言い換えますと、この地以外には全くこの種の磁器がなかったというのではなく)、その基本はやはり有田の窯にあったことは否定出来ません。
     先頃、佐賀市内にある鍋島報效会が鍋島初代藩主勝茂公の遺愛品を3度にわたり展示公開致しました。このうち、鍋島の前身とも思えるような優品が3種ありました。
     その1は、色絵大盃(天目碗)と盃台(天目台)2種、その2は中国明時代の色絵祥瑞を素直に写した大皿、その3は椿の花と枝の丸紋大皿2種でありました。これらは勝茂公が佐賀藩主として君臨した時代のもので、帰天したのが1657年でありますので、多分1655年前後の製品であろうかと思われます。
     また、焼成地は有田内山、多分猿川、岩谷川内附近だろうと思われます。少なくとも勝茂公遺愛のこれら6点は藩主の注文品でありますが、その注文は、藩窯であった大川内山ではなく、その前身とも言える良質の磁器焼成地であった上記有田内山で焼かせたものと思われます。
     話は前に戻りますが、大川内山の日峰社下窯跡で出土した磁器片のうち大変に精緻なものを写真1〜3にあげます。

        1.          2.          3.
             
                       
       

      それと同種の伝世品は4〜6であります。

        4.           5.           6.
                
            

     今回はこれくらいにして、次回の第4回目には、日峰社下窯で焼成されたと思われるものを伝世品の中から選び出し御話しようと思います。

  • 第4回 鍋 島 日峰社下窯遺物について その2




    ● さて、私の鍋島もこれで4回目ということになります。前回、3回目は、昨年夏頃に書いたものだったと思います。実は名古屋に来ることが比較的少ないものですから、インターネットで皆様に永らくお会いすることがなく、誠に申し訳なく思っております。今回も九州よりの帰りにちょっと途中下車して、この店に参り、4回目を書けといわれましたので、即、ペンをとっている次第であります。
     第3回目が大川内藩窯址のすぐ右脇にある、いわゆる日峰社下窯址より出土した陶片3片と、これに類似の伝世品3種を御紹介申し上げました。
     皆様御存知のように、日峰社下窯址の調査は1990年(平成2年)でありましたが、これは窯址のごく表面の陶片採集と、トレンチ3ヶ所を試掘したにすぎなかったわけでありますから、この地で作られた焼物すべてを解明したわけではありません。幸いにして、発掘陶片の中から3片、伝世の初期鍋島と一致したものがあったというものであります。その後、なるべく早く日峰社下窯址の完全なる発掘調査が是非とも必要でありましたが、1990年の試掘以降、今日まで全く手つかずの状態が続いています。出来得れば、遅ればせながら本年中に調査を終了してもらいたいものでありますが、どうもこれに答えてくれそうにありません。
     そこで今回は、この日峰社下窯で1660年前後に焼成されたであろうと思われるものを、伝世品の中から抽出してみようと思います。
     まずここで『第3回鍋島』の時に御紹介申し上げた、日峰社下窯址からの発掘陶片3片を再び登場させましょう。

     右にご紹介する陶片1、2、3は、ともに変形の5寸皿でありますが、これらの染付模様をよく見ますと、盛期の鍋島にない染付模様であること、そして高台の剣先繋ぎ文の下方に一輪の染付線がないことに御気付きのことと思います。

     このことを基礎として、これまでに数種の本や数回行われた展覧会図録を見ますと、次のようなものがこれに類似していることがわかります。

    日峰社下窯址出土陶片1

    日峰社下窯址出土陶片2

    日峰社下窯址出土陶片3


     これより右にご紹介する参考品5点のうち、1、2、3の3点は、日峰社下窯址よりの発掘陶片に一致するものです。
     なお、写真1の色絵薄瑠璃唐花文皿は表面文様は、一致いたしますが、裏面高台の文様は、陶片のように剣先繋ぎではなく、少々低い高台に二重圏線をめぐらしてあることが陶片とは異なります。

    1.色絵薄瑠璃唐花文皿(出土陶片1類似品)
    高さ2.3p 口径14.7p 底径8.2p

    2.色絵唐草七宝文変形皿(出土陶片2類似品)
    高さ3.4p 口径14.0-16.9p 底径7.7-9.6p

    3.色絵梅流水文皿(出土陶片3類似品)
    高さ3.1p 口径14.8p 底径8.2p

     また、参考品4、5は小皿の型が発掘陶片と一致するものとは異なりますが、裏面文様は陶片に類似のものです。
     表面の文様のものは現在までのところ陶片としては発見されていませんが、この2点も間違いなく日峰社下窯で焼成されたと思われるものであります。
    注)4.九州陶磁文化館蔵
      5.林原美術館蔵

    4.色絵薄瑠璃唐花文菱形皿(出土陶片類似品)
    高さ3.4p 口径13.7-16.2p 底径7.4-8.9p

    5.色絵秋草花籠文皿(出土陶片2類似品)
    高さ3.5p 口径15.1p 底径8.2p
        
     そこで、これらの5点の表裏文様を拡大解釈してみましょう。
     特に表面文様ですが、薄瑠璃であったり、七宝文を散りばめたと思えるような文様を染付で一面に描いたものであったり、瑠璃と染付絵で波文様を描き、その中に梅花と思える花を流したものなど、そして色絵では、鍋島らしい染付輪郭の中に濃緑釉と黄釉を施したもの、時にはその中に赤絵具を入れたものと、白抜きの部分に全く染付を入れずに赤絵具で輪郭を描き、その中に淡緑色の釉と淡黄色の釉で塗りつぶしたものとがあることに御気付きでありましょう。つまり、これらが大川内における鍋島藩窯最初期の形式だろうと推察できます。
     もう少し拡大解釈しましょう。
     これまで伝世した初期鍋島といわれている中にも、日峰社下窯で焼成されたと思われるものがあることに気付きます。
     右の参考品6は、上記3の色絵梅流水文皿によく似ているように思われます。薄瑠璃と染付線、それに梅花の描き方からすると、同時代か、もしかすると3の小皿よりごくわずかに早い段階のものであるかもしれません。

    6.色絵梅花流水文向付 高さ6.3p 口径5.7p 底径3.9p


     また、以下に挙げる参考品7〜12は、1650年代後半、いわゆる日峰社下窯で焼成されたことが示唆されます。
    7.色絵水草文向付 高さ6.4p 口径6.2p 底径3.5p

    8.色絵梔子文向付 高さ6.5p 口径6.3p 底径3.5p

    9.色絵唐花文四方向付 高さ6.3p 口径4.5p 底径2.5p

    10.色絵福寿文向付 高さ6.3p 口径6.7p 底径3.2p

    11.色絵砥草文向付 高さ8.4p 口径5.3p 底径3.5p

    12.染付更紗文向付 高さ8.4p 口径4.6-5.4p 底径3.2p


     今日は、私が現在考えている日峰社下窯で焼成されたと思われる伝世品をご紹介いたしました。しかし、これはあくまでも私の今の考え方にすぎません。日峰社下窯の完全発掘調査の結果がすべてを証明するわけですから、一日も早い発掘調査を切望する次第であります。
     次回は、いわゆる初期鍋島についてお話致しましょう。
     御機嫌よう。

                           工藤吉郎